【開運さんぽ・神社】
富士山と浅間信仰

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富士山の噴火を収めるための浅間信仰

 標高3776m、日本で一番高い山、富士山。その姿の美しさ故、古代から詩歌や絵画、写真など多くの題材となってきました。また登山や観光地としても人気であり、2013年には関連する文化財群とともに「富士山 - 信仰の対象と芸術の源泉」として世界文化遺産に登録されています。

 当然、富士山はいにしえから信仰の対象となってきました。富士山自体をご神体とする富士信仰は山岳信仰の1つであり、その中の代表が浅間信仰(せんげんしんこう)です。
 富士山を「浅間大神(アサマオオカミ)」として祀る浅間神社が出来たのは紀元前のこと。伝承では紀元前27年に第11代垂仁天皇が、今の浅間神社総本宮である富士山本宮浅間大社を創建したとされます。

 富士山は火山です。1万年以上前から幾度となく噴火を繰り返して、今の姿になりました。平安時代の延暦噴火(800年〜802年)、貞観大噴火(864年)のほか、最後に噴火したのは江戸時代の宝永大噴火(1707年)。以後300年間は噴火していませんが、富士山は活動の終わった死火山ではなく、今も活火山。噴火の可能性は残っています。
 浅間神社が出来た頃は火山活動が活発なときであり、神社は噴火を鎮めるためのものでした。山が崩れ、溶岩が流れていては、山に近づくことはできません。そのため、古い浅間神社の多くは富士山の麓にあり、そこから遥拝(遠くから拝む)していました。今では、浅間神社は全国約1,300社に広がっています。

 その後、いつからか木花咲耶姫命(コノハナノサクヤヒメ)を浅間大神と同一視するようになりました。木花咲耶姫命は、日本の山を統括する父神の大山祇神(オオヤマツミ)から、日本一の富士山を譲られ、富士山に鎮座したとされます。元々は火の神ですが、富士山本宮浅間大社の社伝では、噴火を鎮める水の神とされます。
 現在の浅間神社は木花咲耶姫命を主祭神としています。

参考記事:

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修験道の地から民衆の祈りの場へ

 平安時代、1083年(永保3年)の噴火以降、噴火活動は一時沈静化します。そうすると、人々は富士山を登るようになります。
 「神々は仏の化身」という神仏習合思想が広まり、それまでの浅間大神(富士山)を大日如来と見なしました。そして、富士山頂にあるとされる「仏の世界」を目指して、多くの修験者が登山するようになったのです(登拝)。
 一番最初に富士登山をしたのは、「修験道の開祖」とされる役行者と言われますが、どうもこれは伝説のようです。

 江戸時代はじめ、長谷川角行は富士の人穴などで荒行を行い、修験とは異なる新しい教えを説きました。これが次第に「富士講」として発展していきます。
 富士講は、宿坊を経営する神職である「御師(おし、おんし)」が、宿泊から祈祷まで参拝者のすべての世話を行うという組織的なものです。参拝者は御師の指導のもと、浅間神社に参拝した後、富士山の頂上を目指しました。これによって登山道が開かれ、宿坊などの整備が進みました。

 江戸の町で富士講は大ブームとなります。山頂まで登れるのは、山が開かれる夏の2ヵ月に限られるのに、1〜2万人が押し寄せたそうです。
 それでも江戸の町から麓の吉田まで行くのに3日、頂上まで往復2日、帰りに3日(早い場合)と日数もかかり、費用的にも大変です。そのため、有志でお金を積み立て、代表者に祈願を託す「講」の形式が取られたのです。
 登拝に行けない人のためには、町の中に富士山を模した富士塚が多く作られました。
 ちなみに、今も富士山登拝を続けている講や御師は存在し、富士講は残っています。