【開運さんぽ・パワースポット】江戸の寺社(1)
鬼門の守り
鬼門の守り
●陰陽道や風水の知識によってつくられた江戸の町
徳川幕府を開いた徳川家康には、側近として二人の僧侶がいました。川越大師喜多院住職の天海大僧正と、京都の南禅寺金地院(こんちいん)住職の以心崇伝(いしんすうでん、別名;金地院崇伝)です。
徳川家康は徳川幕府の基盤を強固にするため、この二人を強力なブレーンとしてさまざまな政策を進めます。
以心崇伝は寺院諸法度や武家諸法度、禁中並公家諸法度の制定など、政策面で実権を握り、黒衣の宰相とも呼ばれました。
一方、陰陽道や風水の豊富な知識を持っていた天海には、江戸の町づくりが命じられました。
陰陽道や風水では、北東(丑寅)を「鬼門(きもん)」と呼び、鬼が出入りする不吉な方角としました。同時に、反対側の南西(未申)も不吉な方角で、裏鬼門といいます。
天海はこの重要な鬼門封じとして、江戸城の北東に上野寛永寺、南西に芝増上寺という大きな寺院を配置しました。共に将軍徳川家の菩提寺です。
これだけではありません。北東から南西にかけての鬼門ライン上には、さらに多くの寺社が配されて、その力を倍増する仕組みになっています。
上野の山には徳川家康を祀る神社である上野東照宮、芝には芝東照宮。
寛永寺と江戸城の間には、江戸総鎮守の神田明神。神田明神には大己貴命、少彦名命と共に(朝敵であった)平将門が祀られています。
増上寺と江戸城の間には、やはり江戸城の鎮守である日枝神社が鎮座します。
●3代かけてつくりあげた大江戸
天海僧正が風水の手本としたのは、朝廷が君臨する“風水都市”京都です。
彼が開いた上野寛永寺の正式名称は「東叡山 寛永寺」。京都の「比叡山 延暦寺」に対して、「東の比叡山」という意味が込められています。寺号は創建された年号から取っています(延暦寺は延暦7年、寛永寺は寛永2年)。そこも真似ているわけです。
そして彼は、鬼門ラインだけではなく、風水や陰陽道を基にさまざまな神仏を街中に配置し、二重三重に結界を張っていきます。
もちろん、これらは家康一代で完成したものではありません。天海僧正は、1616年に亡くなった徳川家康の葬儀を取り仕切り、さらに3代・家光まで仕えます。例えば、上野寛永寺にしても創建は1624年、家光の時代です。
土地を開発するにしろ、寺社を建て替えるにしろ、時間も費用もかかります。江戸城を拡張したり、堀や街道の整備など「都市計画」のために、また市内の大火の後始末などで、江戸時代には多くの寺社が移動されました。
江戸幕府の体制が完成したのは3代・家光のときといわれます。その後もパワーを少しずつ補強することによって、江戸は繁栄していくのです。
(続く)
<参考>
コメント
このブログにコメントするにはログインが必要です。
さんログアウト
この記事には許可ユーザしかコメントができません。